この大名、誰だと思いますか?(歴史の学びをビジネスに活かす)

2017.08.19 (土)
人はだれでも、 先入観 を持っている。

先入観 を持たずに考えてみよう。

先入観 について考える前に、クイズです。

 

この大名は誰でしょう?

ヒント:

・戦いの前に神社に祈りを捧げた。その神社には多額の寄進を行い、この大名が作った壁が今も残る。

・寵愛した側室の死をいたみ、天守閣から彼女を葬った寺の方角を見ては涙を流した。

・居城を引っ越す時、引越し先を守護するため領内各地から仏像を移し「守り神」として祀った。

・旧領、引越し先の領地ともに菩提寺を定めた。

・他国の有名な寺院をわざわざ自腹を切って領内に引越しさせた。

・お寺に鐘を自分の名前を彫った鐘を寄進し、その寺の領地を与え、権利を保証した。

・伊勢神宮の式年遷宮のとき、1,000貫の寄進を依頼されたが、「それでは足りんだろう」と言って3,000貫を寄進した。ちなみに、1貫は今のお金にして15万円なので、4億5,000万円を寄付したことになる。

などなど。

 

こうした事実から、どんな人物像を想像するでしょうか?

 

 

どちらかというと、信心深い感じがしますかね?

 

 

さて、この戦国大名は誰でしょうか?

 

 

チッ

チッ

チッ

チッ

 

 

答えは、、、

 

織田 信長

 

です。

論理的思考 という点では信長自身、当時としては軍を抜いていた気がする。

なぜか、 信長 だと金ピカでも許せてしまうのが不思議です(笑)

 

イメージと事実を見比べる。

ちょっと、意外じゃないですか?

織田信長といえば、比叡山を焼き討ちしたり、石山本願寺が率いる一向宗門徒と激烈な戦いを繰り広げた人です。一向一揆に対しては、時に皆殺しにすることすらありました。

 

安土城には、信長自身を神として祀る神社を作ったという話もあります。

 

宣教師のルイス・フロイスが著した「日本史」では、信長について「彼は良き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」といってます。

 

ですから、

織田 信長 =無神論者

のような見方をされるのかもしれません。

 

 

実際、よく知られている通り、織田信長は比叡山や一向宗は徹底的に叩いています。

しかし、これがいわゆる宗教弾圧かといえば、事情は異なります。

仏教を弾圧したか?といえば、他の宗派に対してはそれほどの弾圧を加えていませんからそれは当たらないでしょう。

むしろ、先程あげた事跡に見られるように保護していることも少なくありません。

織田信長自身は日蓮宗であったとされています。

 

「お寺に鐘を自分の名前を彫った鐘を寄進し、その寺の領地を与え、権利を保証した。」は、今も岐阜市内にある円徳寺という寺です。

境内には、信長 の父・信秀が美濃に侵攻し敗北したときに死んだ家来を弔う塚があります。

後に信長は、この円徳寺に自らの名を刻んだ鐘を寄進し、寺領を与え、門前町を楽市楽座とするなど保護しました。

ちなみに、この円徳寺は浄土真宗のお寺です。浄土真宗はいわゆる一向宗なわけですが、攻撃を受けたことはないようです。

このことから、 信長 は必ずしも浄土真宗=敵という認識を持っていたわけではなさそうです。

 

円徳寺。繁華街の一角に今もある。この寺の寺領を安堵し、この地で楽市楽座を開いた。

 

信長が円徳寺に寄進した鐘。「平信長」の銘がある。今でも、円徳寺で使われている。運が良ければ、突かせてもらえる。

また、神社に対しても保護している形跡があります。

1569年に伊勢に進行した折には、伊勢神宮に専科が及ぶことを避けるために周辺に、わざわざ陣取りや放火を禁じる禁制を出しています。

さらに、最後まで抵抗していた北畠具教を屈服させた後、伊勢神宮と近隣の朝熊神社に参詣した事実があるのです。

 

また、「戦いの前に神社に祈りを捧げた。その神社には多額の寄進を行い、この大名が作った壁が今も残る」という話は、桶狭間の戦い直前に名古屋の熱田神宮であった出来事です(1560年)。

また、伊勢神宮への寄進は本能寺の変直前の話です(1582年)から、ほぼ生涯を通じて同じように、神社に対しては一定の敬意を払っていたことが伺えます。

2年前に訪れた熱田神宮

今も残る、織田信長が寄進したとされる壁。堅固です。

 

比叡山や一向宗を徹底的に叩いた理由は、むしろ 信長 と敵対した浅井長政、朝倉義景に力を貸すなど、公然と敵対したからだと思われます。

1570年、越前の朝倉義景を攻めた 信長 は、妹のお市を嫁がせた義理の弟である浅井長政の裏切りに遭います。

結果、命からがら撤退する事になりました。

金ヶ崎の退き口と呼ばれる逃亡劇です。

4万の兵を率いて出立した 信長 ですが、京に逃げ帰った時は十騎ほどの取り巻きしかいなかったとされます。

 

その後、 信長 は浅井・朝倉連合軍と戦うわけです。

その際に、浅井・朝倉に力を貸したのが比叡山と一向宗でした。

浅井・朝倉両軍は比叡山に籠もって織田軍と対決します。

これは1570年9月の志賀の陣と言われる戦いです。

信長 は比叡山に対して「味方をすれば、山門領を還付する。敵対すれば焼き払う」と勧告していますが、結果的には無視された形です。

 

当時の比叡山は広大な寺領を守るために多数の僧兵を抱えていました。

また、当時の寺は金融業の大元締めでもありました。

京都や奈良などの「土倉(どそう・とくら)」と呼ばれる質屋と高利貸しを兼ねたもの多くは比叡山の傘下です。

土倉の多くは酒屋も兼ねていますが、酒屋は大きな資本力がないと経営できないものでした。

要するに、当時の比叡山は広大な領地を持ち、軍事力と財力を兼ね備えた存在です。

ゆえに、 信長 から見れば、自分に敵対する大名とほぼ同義と理解されていたのかもしれません。

 

先日、訪れた岐阜県揖斐町の横蔵寺の山門。比叡山と同門のため織田軍による攻撃を受け、本堂、伽藍などが焼かれた。比叡山の本尊が焼失したため、横蔵寺にあった最澄が彫ったとされる仏像が移された。

 

信長が徹底的に叩いた一向宗はどうかと言えば、根来寺などは鉄砲を自ら製造し、戦国大名に鉄砲集を貸し出していました。

実際、一向一揆では、鉄砲を持った門徒に織田軍が苦戦したことが記録に残っています。

紀伊の雑賀衆も一向宗門徒ですが、彼らにも相当に手を焼いています。

根来寺には僧兵が8,000人〜1万いたといいますから、戦力としては並の大名よりも上です。

 

ちなみに有名な関が原の戦いでも、1万以上の兵を率いていたのは東軍では徳川家康が3万、西軍では毛利秀元が15,000、小早川秀秋が15,600、宇喜多秀家が17,000ほどと言われています。

他にも、有名武将が多数参加している関が原ですが、その関が原ですら1万以上の兵力を備えていた大名は数えるほどしかいません。

そう考えてみると、根来寺の僧兵1万がいかに巨大な戦力だったかがよくわかります。

 

信長 は無神論者か?

しかし、冒頭であげたような事実や当時の比叡山や一向宗の実際の姿を合わせて考えてみると、信長=無神論者という構図は成り立ちにくいように思います。

ルイス・フロイスはあくまでキリスト教(イエズス会)の宣教師なので、ローマや本国ポルトガルの覚えがめでたくなるような記述をしたのかもしれません。

フランシスコ・ザビエルとルイス・フロイスの像。どっちがどっちかは忘れました(笑)

要するに、フロイスからすれば「異教徒と仲良くしている」という状況はあまりよろしくありません。

少なくとも表向きは、彼は宣教師ですから異教徒である戦国の日本人を感化してキリスト教徒にすることがミッションです。

ですから、「あいつ、異教徒だけど良いやつだし、あれはあれでいいんじゃね?」みたいなスタンスは取りにくいでしょう。

結果、内実は事実を多少曲げてでも、 信長 を自分の思想的な同調者として描かかざるを得なかったのではないでしょうか?

同時代の他の宣教師の記録を全て攫ったわけではないので、あくまで想像でしかありませんが。

 

 

ということで、この記事の結論としては「 信長 は案外、信心深そうだし、仏教を含めた宗教そのものを毛嫌いしていたわけでもなさそう」ということになります。

 

寄進をしたり、保護を与えている事実から類推するとそうなりますよね。

 

 

ぼくらは先入観をもっている。

で、なんでこんな話をしているか?と言いますと、織田 信長 に対して、先入観を持つように、ぼくらは他人や物事について先入観や思い込みでイメージを持ちがちではないか?という問題提起のためです。

実は、最近、娘が夏休みの自由研究で織田 信長 を扱うと言うので、何冊か本を読んでみました。

その結果、今まで織田信長 に対して持っていたイメージが案外、的外れだったことに気がついた次第です^^;
恥ずかしながら、ぼく自身、ばっちり先入観をもって織田 信長 についてわかったつもりでいました。

 

例えば、先に上げたような事実やルイス・フロイス立場を考慮せずに、彼の意見を鵜呑みにした場合にも、織田信長 について誤った理解をすることになるでしょう。

フロイスの言をそのまま読めば、信長は宗教的なことを軽蔑している無神論者ということになります。しかし、先程から、お話ししているように事実は少々違いそうです。

 

これもまた、ぼくらが日常で仕事や生活をする中で起こりがちなことなのです。

例えば、社内のある人物について誰かが話していたとします。

その発言者に影響力があると、ある人物についての周囲の人の認識は発言者が抱いている印象か、発言者が周囲にある人物に対して持って欲しい印象に引きづられることになります。

意図的かどうかは別として、印象がされているというわけです。

 

今流行の「印象操作」などというものは、特別なものでも何でもなくごく日常的に行われているものです。

なぜ、印象操作などというものが成立するか?といえば、事実を検証して自分の頭を使って考えずに、誰かの意見を鵜呑みにする傾向が多くの人にあるからです。

 

 

大事なのは、事実、数字、ロジック

織田信長に限ったことではありませんが、人にせよ、出来事にせよ、事実を検証せず、数値の裏付けもなしに、イメージと(他人の)意見と感情で「考えたつもり」「わかったつもり」になっているケースは多いものです。

言ってみれば、イメージと意見と感情で物事を理解しようとすれば「自分が見たいと思っている現実」を再現するだけで、実相に迫ることは出来ません。

 

実相に迫りたいと考えるなら、事実と数字を押さえて、論理的に考えたほうがたどり着ける可能性はたかいでしょう。

 

だいたい間違うのは、他人が出した人や出来事についての「意見」を事実や数値の検証もなしに飛びついた場合です。

意見の中でも、ぼくらはとくに「耳心地の良い」話や自分の先入観に近い話に飛びつきがちです。

しかし、所詮、「意見」は意見でしかありません。事実と意見は違います。

 

意見には、発信者の「意図」「願望」が必ず混じるものです。

ルイス・フロイスの意見を鵜呑みにすれば、織田 信長 についての理解を誤るというのと同じことです。

ですから、何かを判断するときにはまず、得た情報が事実なのか?意見なのか?を見極める必要があります。

 

会社の中で課題について、長時間、喧々諤々の議論を繰り広げた挙句に「何の効果もない解決策」がひねり出される原因も多くの場合ここにあります。

会議の中で事実と数字を論理的に検証せずに、イメージと意見と感情をぶつけ合っているケースは実は少なくありません。

 

何かを理解したり、解決したりするために大切なのは、あくまで事実、数字、ロジックです。

イメージや誰かの意見や感情は、一旦、脇に置いて冷静に考えることをお薦めします。

 

子どもの自由研究もバカになりませんね。かなりためになりました(笑)

今野富康


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