自己実現ができない 理由

2015.08.08 (土)

久しぶりに強制的にPCから隔離された中で考えていたことです。PCが開けたり、Wifiが繋がる環境だとついつい仕事のメールやチャットにレスポンスしたり、マーケティング・キャンペーンの進捗を確認したり、仕事のことばかり考えてしまって、おちついて人生や仕事以外の重要なことを考えることを後回しにしがちです。今回は信州の山奥に来たので、それも出来ず、いろいろと考える事が出来ました。

 

何を考えていたかというと、「やっぱ、手前勝手な 自己実現 なんかを追いかけているうちは上手くいかないな」ということです。こんなことを言っている時点で、反感を買いそうな気がしますが(笑)

Business competition with jumping businessman over obstacle

Business competition with jumping businessman over obstacle

言わんとすることは、こういうことです。結局のところ、自己なんてものは他者なしでは存在し得ないものです。なぜなら、自己という認識自体が「他者とは違う」という認識なしには存在し得ないからです。

 

bad manager in magnifying glass

bad manager in magnifying glass

 

故に自己実現を目指したところで、それは結局、他者に何を与え・何を受け取るか、他者とどのような関係を結ぶか、他者にどのように見られるか、ということでしかありません。つまり、結局、他者の存在に依存しなければ「 自己実現 」はおろか、「自己」そのものが成り立たないと言うことになります。

 

試しに、光も闇も、天も地も、東西南北も、他のあらゆる物体も、当然、他の人もいない真っ白な空間に自分一人がポツンと浮かんでいる状態を想像してみてください。その状態で、自己実現なんて出来るでしょうか?いえ、それどころか、自分以外の何も存在しないのに「自分とは何か?」を認識できるでしょうか?おそらく、出来ないのではないか?と思います。

 

イメージで言うとこんな感じです。コップを想像して下さい。そのコップを割ったとしたら、それはコップでしょうか?単なる破片でしょう。キラキラしたり、ギザギザしたり、透明だったり、どうでなかったりする破片です。同じ質量と材質のものなのに、なぜ、それはコップではなくなってしまったのでしょうか?在り方が変わり、周囲との関わり方が変わったからです。

 

また、人間から見ればそれはコップでも、馬や鹿、熊や鳥からみたコップはコップとして認識されているでしょうか?おそらくされていないはずです。そして、認識されないとしたらそれは存在しないのと同じです。人間だけが、言葉=記号に意味を当てはめて、大抵は円柱や円錐形を途中で切断して中身をくりぬいて、液体を入れることが出来る、ガラスや陶器の塊を「コップ」として認識しているのです。

 

要するに、物理的条件と周囲の認識両方がないと、コップですら、コップでありえないのです。

 

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私達は、他者がいなければ、自己もなく、他者の存在を前提としなければ、自己の中にあるどんな感情的、能力的などんな側面も実現することは出来ないのです。喜怒哀楽のどの感情も、外からの刺激に対する反応です。あらゆる、スキル、知識も外に向かって発揮することで初めて意味を持ちます。富は外部に交換可能なものが存在するから意味があるのです。敬意や侮蔑も他者からの、あるいは他者へのものでしょう(自尊、自己否定というのもありますが)。自己はつまるところ、他者の存在を手がかりにして何とか成り立っている「関係性のハブ」のように思えます。

青い地球を見つめる大勢の人々

ハブがハブ足り得るのは、関係性の交点だからであって、一本の線だけではハブとは呼べないでしょう。独りよがりな他人の存在を無視した自己実現が歪なのは、自分を物理的な体の中に閉じ込められた存在として捉えて、一本の線の太さや色や長さを思い通りに仕様としているからなのではないでしょうか?

 

何もない、真っ白な空間で、自分の姿を変えても、自分しかいないのだからなにもしないのと同じです。逆に、自分が自分以外の存在によってようやく形作られている現実世界で、他者を無視して自分を形作ろうとしているのだとしたら、それはおそらく上手くいかないでしょう。他者無くして、自己が存在し得ないのに、他者を無視しているのだとしたら思う様、自己を実現できるはずがないからです。

 

それに、物理的な体を取り巻く、環境、人、もの、状況、全てが自己を今ある形にしているのに、その関係性を蔑ろにするとしたら、それは自分を蔑ろにするのと同じことです。自分を蔑ろにするのは、実現すべき自己ではないのでしょうから、手前勝手な自己実現を目指そうとした時点で、その人が望む 自己実現 からは遠ざかる選択をしているのではないでしょうか。

 

いや、むしろ他人や、今いる環境や、物や事を蔑ろにする態度と行動によって自己を表現し、ある意味において自己を実現していると言えるかもしれません。

 

いずれにせよ、自己とは、物理的肉体の外側のあらゆるものとの関係性も含めたものなのではないでしょうか。その意味では、自己とは通常体感できるよりも大きな存在ですし、実現すべき自己とは体の外側の範囲も全て含めたもののように思えます。だから、自分のことばかりにフォーカスしているうちは自己実現なんておぼつきません。

 

自己はおそらそらく、周りの他のすべてのために存在している。そして、他のすべてのために存在していると自覚した時、他の全ては自己のために存在する。逆に、自己は自己であり周りのすべては自己のためにあるべきだと考えた時、他の全ては私達に背を向け他のすべてのために存在するのではないでしょうか。あなたが目と心を向ければ周囲もあなたの方を向く。あなたが目と心をそむければ相手も背ける。まるで鏡のようですね。

Photo of depressed young girl hiding her problem

Photo of depressed young girl hiding her problem

自己実現というのは、幸福な状態になるために目指すものですから、何かを手に入れたり、何かになったりしても、結果、幸せに感じないなら目的を達成できません。独りよがりの自己実現は、手段と目的を取り違えているのです。

 

someone meditating with his hands in prayer mudra in a spring field

 

以前、ある人に「仕事に専念するために、1,2年家族のことは置いておいて、単身赴任で東京に常駐したら?」と言われたことがあります。しかし、これは典型的な「手前勝手な考え」なのです。仕事に専念したいのは、私の都合。しかし、奥さんや幼い子どもたちには彼女たちの希望や思いがあるでしょう。それらを無視して自分の都合だけを優先しようとすれば、必ず破綻します。破綻とは、手段と目的を取り違えた結果、最終的な目的である幸福から遠ざかることです。

Businessman just made a horrible mistake

 

自己を望ましい形に近づけようと思うなら、目標を見据えると同時に、自分が今いる現実を見据える必要があります。コップがコップでのあるが、周囲の空間との関係性の問題であるように、あなたや私が今の自分であるのは周囲との関係性によるのです。望ましい状態とは、より望ましい状態に関係性を変化させていくことではないでしょうか。

 

「あちら」と「そちら」がなければ「ここ」はなく、「過去」と「未来」がなければ「今」はなく、「彼・彼女」と「あなた」がなければ「私」もない。無数のパラメータ、座標軸の交点として「私」がある。おそらくは、何らかの形で自分を取り巻く全ての世界と私達は何らかの接点を持っているのでしょう。

 

自分を望ましい状態に変えることは、自分が何らかの形でつながっているすべてのものに影響をあたえることになるはずです。自己実現は自分一人ではできません。理屈は今までお話してきたとおりです。そして、今の構図を反転させてみるとこうも言えるでしょう。あなたや私は周囲の全て=世界に関係している。ゆえに、あなたや私の好ましい変化が周囲にも恩恵をもたらす可能性がある。好ましい変化、いわゆる成長というのは、自己にとって機会であるだけでなく、自分が生きる世界に対する責任でもあるのでないでしょうか。

 

普段は、ビジネスをしていますから、極めて実利的な、数字で追いかけられるようなことを扱っているし、そういう仕事が好きですが、もともと文学部出身なので?仕事から手を離せる時はたまに思索にふけったりしています(笑)


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